知られざる日本の山林王たち

第九回 東京の山村から

プロフィール

のむら すすむ/1956年生まれ。ノンフィクションライター、拓殖大学国際学部教授。
上智大学外国語学部英語学科中退後、フィリピンに留学。アテネオ・デ・マニラ大学で学ぶ傍ら取材・執筆活動を始める。帰国後、『フィリピン新人民軍従軍記』(講談社+α文庫)を発表。アジア・太平洋地域、先端医療、メディア、事件、人物・企業論などの分野で取材と執筆を続けてきた。著書に『コリアン世界の旅』(講談社文庫・大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞受賞)、『アジア 新しい物語』(文春文庫・第11回アジア太平洋賞受賞)など。他に、創業百年を超える日本の老舗企業の生き残りを丹念に追った『千年、働いてきました』(角川グループパブリッシング)、在日中国人の「現在」に迫った『島国チャイニーズ』(講談社)がある。
朝日新聞、読売新聞の書評委員を歴任。講談社ノンフィクション賞選考委員。

東京都に残る「村」

 東京と山林王――。

 どう見てもそぐわない組み合わせだけれど、世界有数の大都市・東京にも広大な山林があり、その所有者がいる。

 実に意外なことだが、東京都の全面積の4割近くは山林におおわれているのである。

 東京駅から中央線に乗り、新宿駅を通過して、ひたすら西をめざそう。

 立川駅で青梅(おうめ)線に乗りかえ、さらに拝島(はいじま)駅で五日市(いつかいち)線に移動して、終点の武蔵五日市駅までゆく。

 東京駅から1時間と20分足らず。そこからタクシーで20分弱のところに、その人の住まいはある。

 つまり、東京駅から1時間半あまりで、鬱蒼(うっそう)たる山林にかこまれた田中惣次(そうじ)さんのお宅に着けるのだ。

「野村進さんというお名前を聞いて、『えっ!』って思ったんですよ」

 のっけから、田中さんにそう言われた。

 はて、どういうことか。

「おやじの名前が『野村進』っていうんです」

 今度はこちらが驚く番だ。

「いえね、うちのおやじは養子で、田中家に養子に入る前の姓が『野村』なんです。名前が『進』だから、『野村進』(笑)」

 おまけに、田中さんのご子息は、ぼくが教壇に立っている拓殖大学国際学部の第1期生だという。

 「奇遇」とはこのことではないか。前にテレビの『トリビアの泉』で流行(はや)った「へぇー」度でいえば、満点の「100へぇー」に限りなく近いであろう。読者にはどうでもよい話で、山林王にもまったく無関係ではあるけれど、個人的な興奮がさめやらない。

 ひとりで感心しているぼくに、大柄で目力も強い田中さんは、

「だから、この取材はぜったいに受けなきゃと思ったんですよ」

 と笑った。

 ここは「檜原(ひのはら)村」という、東京に数少なくなかった「村」のひとつで、大島などの島嶼(とうしょ)部をのぞけば都内唯一の村なのである。

 かつて、このあたりは卒塔婆(そとば)の生産で知られた。お墓に立っている、戒名や経文などが書かれた、あの細長い木の板のことだ。

 東京の西多摩地域は、江戸時代から日本最大の卒塔婆の産地であった。檜原村に隣接する日の出町は、いまでも全国のお墓にある卒塔婆の6割以上をつくっている(ついでに言えば、棺桶の生産量でも日本一をほこる)。

 卒塔婆は、サンスクリット語で仏舎利(ぶっしゃり)をおさめた塚をあらわす「ストゥーパ」に由来する。実際にぼくがインドや東南アジア各地で見たストゥーパは、卒塔婆の語源とは思えぬほど巨大な、ふせたお椀や釣り鐘、あるいは瓢箪(ひょうたん)のような形の石塔であった。

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