エッセイ

偏愛読書館
読み返すたびに思い出す彼のこと

『春は馬車に乗って』 (横光利一 著)

岡田 育
岡田育1980年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。出版社勤務を経て、現在は情報番組などにも出演中。著書に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』がある。

 大学生の頃、アルバイトで家庭教師をしていた。教え子の一人は、進学校を目指す中学生男子。「数学の試験では解けない問題を見たことがない」と豪語する、理数系の優等生だ。

 ところが国語の成績だけは、ずっと赤点続きだという。母親の依頼を受けた私が空白だらけの現代文の答案用紙に目を通す途中、隣で頬を真っ赤にしてモジモジしだした彼は、大人びた面差しに子供の戸惑いを載せて、こう言った。

「先生、僕には、人の気持ちというものが、わからないのかもしれません」

 数学の問題にはあらかじめたった一つの解答が用意されているので容易に満点が取れる。物理も生物も社会科も、教わった通りに答えれば間違えようがない。でも国語の問題に限っては、いくら勉強しても「正解」がわからない。「筆者の意図は以下のうちどれですか」「このときの彼女の気持ちを述べなさい」「これを読んで、あなたはどう感じましたか」。

 小説でも漫画でも映画でも、心からの感動をおぼえたためしがない。死亡事故や殺人事件のニュースを見ても、泣き虫の母や妹のようには嘆くことができない。みんなには簡単なことが自分にだけ難しいのは、僕だけが、人の気持ちに寄り添う能力に、何か致命的な欠陥を抱えているのではないか。上気した顔に潤んだ瞳で、そんなふうに言うのだ。

 数週間後、返却されてきた高校模試の題材は、横光利一『春は馬車に乗って』だった。「わぁ、私、この小説、大好きなんだよね」と喜ぶと、彼は心底驚いた顔で、「えっ、これ、何が面白いんですか? 泣けるんですか?」と尋ねてきた。

 横光利一が亡妻キミを題材にとった作品の一つで、結核を患って死が近い若き妻と、献身的に看病する夫の姿が描かれた短編小説である。「こんなワガママなバカ女に振り回されて尽くし続ける男の気持ち、全然わからないです。いくら顔が美人だろうとすごく見苦しいし、まだ生きたいのか、もう死にたいのか、言うことだってコロコロ変わるし」というのが、天才数学少年の感想。あらすじだけ追えば、まぁ、そんな話だ。

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オール讀物 2014年10月号

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