美の迷宮を旅する

11「永仁の壺事件」を読み解く

(一)事件の発端

プロフィール

永仁の壺(一号)

 永仁(えいにん)二年(鎌倉後期)の文字が入ったその古瀬戸(こせと)の壺を、根津美術館の満岡(みつおか)忠成(元・東洋陶磁研究所所員)と古陶磁研究家の赤塚幹也(のちに県立瀬戸窯業高等学校校長)が見たのは昭和18(1943)年1月末のことである。
 1月7日付の中部日本新聞尾張版に「道路工事中に永仁銘の古い壺が発見された」ことが報じられ、2人はそれを見るために愛知県志段味(しだみ)村の村長・長谷川佳隆宅を訪れたのだった。案内したのは古窯(こがま=中世の窯)の調査と『陶器大辞典』(全6巻。昭和11年完結。寶雲舎)の編集で名を上げていた陶工の加藤唐九郎(旧名・加納庄九郎。45歳)、のちに「永仁の壺事件」として世を震撼させることになるこの事件の張本人である。
 志段味村は名古屋駅から東北へ直線にして16キロの庄内川南岸にある寒村で、現在の瀬戸市や尾張旭(おわりあさひ)市を中心とする古瀬戸窯群の西の外れに位置する。つまり古窯址がない地域だが、郷土史家でもある長谷川村長の話では「壺は自宅傍の道路の改修工事中に完璧な形で出た」という。案内した唐九郎は8年前の昭和10年にさる事情から瀬戸の祖母懐(うばがふところ・現在の読みは「そぼかい」)村を追われ、川喜田半泥子(かわきたはんでいし=久太夫政令〈きゅうだゆうまさのり〉。陶芸が趣味の実業家、百五銀行頭取。唐九郎より19歳年上)との関わりで、すぐ傍の町に窯を手に入れ、そこに住んでいた。

 古瀬戸というのは鎌倉後期から室町時代にこの地方で焼かれた施釉(せゆう=強度と防水効果、膚の美しさを求めて器胎にガラス質の釉薬〈ゆうやく〉を掛けること)のやきもので、わが国の陶器の歴史では釉薬を使いはじめた初期のものとされる。
 とはいえ、それより500年ほど前の奈良時代には唐三彩(とうさんさい=中国の唐代に、主に副葬品として作られた2種から4種類の色釉を施した軟質陶器)を模した奈良三彩と呼ばれる施釉のやきものが焼かれていたし、平安時代には猿投山(さなげやま=瀬戸市の東、数キロ。標高600メートル強の山)の山中や山麓で、のちの瀬戸焼の母体となる灰釉(はいゆう)や緑釉(りょくゆう)を用いた陶器などが焼かれてもいた。しかしそのころの技術はまだ幼稚で、鎌倉時代に入るまでは焼締め(土器より2、300度高い温度で焼いたもの)と総称される無施釉のやきもの、備前や伊賀、信楽(しがらき)や丹波、常滑(とこなめ)といった、今に伝わるやきものが主流になっていた。
 これらのやきものの中には、釉薬が掛かったと同じように表面の一部がガラス化した膚をもつものが多かったが、これは焼くときの燃料である薪の灰が降り注いだ結果、それが天然の釉薬(灰釉)となったもので、自然釉と呼ばれる。
 この皮膜がかりに壺や器の全面を覆っていたとしても、施釉のやきものとはいわない。施釉とは人間が意図的に釉薬をこしらえ、意図的にそれを掛けて焼いたものだけを指す。釉薬が抜けて地肌が大きく出ていても、人工的に釉を掛けたものであれば施釉のやきものである。また猿投山で焼かれた山茶碗(やまぢゃわん=行基焼、藤四郎焼とも呼ばれる雑茶碗。用途については諸説あり)は時代こそ鎌倉だが、釉薬を用いていないので古瀬戸とは呼ばない。つまり古瀬戸は日本陶磁史において、本格的な施釉のやきものの嚆矢(こうし)といえるのだった。

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