エッセイ

偏愛読書館
本の世界を思い切り泳いだ後で

『冷静と情熱のあいだ』 (江國香織 著)

柊子

 小学生の頃は国語の時間が特に好きだった。なかでも音読。同じ文章でも、読み方によって雰囲気や色味が変わる。

 本当はもっと色んな読み方を試してみたい!と当時から思ってはいたものの、先生やクラスメートの手前、恥ずかしくてとても出来なかった。だって音読に気合を入れている子って。ねぇ。大人になっていくにつれ音読の機会はぐん、と減る。私がはじめてお芝居をしたのは中学生の頃。今の事務所が例年おこなっている舞台の稽古を、ひょんなことから観る事ができた。数回お稽古を観ていると、いつのまにか台詞を覚えていた。するとある日、演出担当の嶋尾康史さん(阪神タイガースOBで俳優)に「幕を手伝ってほしい」と声をかけられた。開け閉めのきっかけは言うから、あとは柊子ちゃんの感覚でいいよ、と。私は緊張だけではない胸のドキドキを感じながら幕を引いた。稽古終わりに嶋尾さんから「幕の仕事が上手いやつは芝居のセンスがあるってよく聞くよ」と声をかけられた。嬉しかった。とにかく嬉しかったことを覚えている。そして今、私が所属している事務所が毎年おこなうアトリエ公演に柊子として出演している。

 こうしていざ文章にしてみると、世の中はなかなかおもしろいものかもしれない。私たちが今生きている世界は、日々悩みや葛藤や矛盾やジェラシーだらけだ。コンプレックスを抱えている人は私だけでないことは理解しているつもりだけど、どうしたって「なんで私だけ……」から抜け出せない。だからこそ、読書の時間は必要不可欠だ。本の世界へ足を踏み入れれば、そこに存在するのはもうこの世界の私ではない。素敵な恋愛している気持ちになったり、会社で戦う女性に寄り添って、美味しいイタリアンでチーズを食べたりできる。私は思い悩んでいる時に本を読むことが好きだ。現実逃避でもなんでもいい。本の世界を思い切り泳いだ後は心なしかスッキリしている。心のざわつきがなくなるとまた新しい気持ちで歩いていける気がする。

 私は23歳になった。香水をふってヒールを履いて、鞄には江國さんの本を一冊。だってこれはおまじないのようなものだから。

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『冷静と情熱のあいだ』 (江國香織 著)角川書店

掲載オール讀物 2015年8月号

オール讀物 2015年8月号

特別定価:1,200円(税込) 発売日:2015年07月22日

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