美の迷宮を旅する

14「永仁の壺事件」を読み解く

(四)唐九郎の奇怪な行動

プロフィール

 赤塚幹也は、唐九郎が瀬戸市史編纂準備委員会で配った『陶器辞典』の内容見本パンフレットの表紙を眺めているうちに突然「これは違う」と声をあげた。それは永仁の壺二号が深田雄一郎の手に渡って7年後、この壺が前代未聞の贋作事件として世を震撼させることになる5年前の、昭和29年4月22日のことである。出席していた委員の1人が、このときのことをつぎのように回想している。

「突然のことだったので、(居合わせた)委員たちは『何が違うのだろう』と聞き耳をたてた。

『昭和18年1月下旬のことだ。志段味(しだみ)村で珍しい壺を掘り出したから見にいこうではないかと、東京の満岡(みつおか)忠成を連れて唐九郎君が(私を)誘いにきた。(それで)村長の長谷川佳隆君の家で、永仁二年と彫った壺を見たが、そのときのものと、この(パンフレットの表紙の)写真とは違っている』と赤塚はいった。

 赤塚の語調がかなり鋭かったので、唐九郎は狼狽した。

『それはその……もう1本あったのだが、あのとき発表しなかった。写真では立派に見えるが、裏側がまずいので、ニセモノといわれるおそれがあったから、発表しなかった』と、唐九郎は弁明した。

 その席で赤塚と唐九郎のやりとりをじっと聞いていた滝本(知二。のちに唐九郎を追い詰める人物。前出)は、『唐九郎の弁明は変だな』と思った。滝本はこうつづっている。

『唐九郎の態度物腰におどおどしたところがあり、その答弁も筋が立っていないので、これは怪しいと感じた。発掘者といわれている長谷川(佳隆)の答弁ならこれでもよいが、発掘に関係のない唐九郎の口からまるで発掘当事者のような言葉が出たのだから意外に思った。そこで私は〈手のこんだ演出のようだな〉と皮肉ったところ、唐九郎は真っ赤な顔をして口をもぐもぐさせたが、言葉にはならなかった。』(中略)1954年(昭和29年)4月のこの時点までに、瀬戸市で永仁の壺(ここで言っている壺は1号のこと。2号については委員の誰もが見ていず、この時点では存在すら知らない者がいた)を実際に見たのは、赤塚幹也ぐらいしかいなかった。赤塚は11年前に長谷川佳隆宅で壺(1号)を写生しており、形をしっかり記憶していた。

『(私がかつて見た壺は)陶器辞典の原色版とは直感的に違うとピンときましたから、唐九郎氏に聞いたまでです。(かりに唐九郎の弁明が正しいとして)当時2本発掘されたものを1本は隠しておき、1本だけ発表し、後日2本だったというようなことは妙な気もしますが、(もしそれが事実ならば)長谷川氏が思惑でもあって発表されなかったのかもしれません』と当時赤塚は(滝本ほど唐九郎を疑いきれずに、そう)語っている」(松井覚進『偽作の顛末 永仁の壺』前出。山カッコ以外のカッコ内は引用者)

 市史編纂準備委員会の席上で赤塚の指摘に思わずひるんだ唐九郎は、壺の怪しさを自白した形になったが、それにしても「疵があるから、ええんじゃ」と7万円で売りつけた壺について、「裏側がまずいので、ニセモノといわれるおそれがあったから……」と本心を吐露しているところが可笑(おか)しい。

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