エッセイ

司馬遼太郎の全貌――戦車兵だった司馬さん

「文藝春秋2016年3月特別増刊号 司馬遼太郎の真髄」

中井 勝

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 大阪外国語学校に在学中、軍事教練があって配属将校が「右むけ、右!」の号令をかけると、司馬さんひとりだけが「左」をむいてしまう。これが度重なるので、配属将校にこっぴどく叱られるとションボリして、

「何人か一緒におると、もううまくいかんのや。一人対一人ならええんやけど」

 と言いわけしたという。

 戦車部隊でも同じような失敗談があって、

「行軍の最中に道に迷った」

 だの、もっと極端な例になると、

「戦車を盗まれた」

 という笑い話まである。

 思うに、司馬さんが陸軍戦車学校時代の苦労話を硬軟とりまぜてジョークで話したものに尾ヒレがついたのだろう。

 昭和二十年春、本土決戦がせまり内地の栃木県佐野市への進出が決まると、事態は一変した。米軍上陸部隊を邀(むか)えての戦車部隊による決戦である。当時、司馬さんが搭乗していた戦車は通称チハ車といい、正式名は九七式中戦車である。

 昭和十二年製の特殊鋼材で造られた戦車であっただけに、装甲板をヤスリで削っても傷つかない。がしかし、戦争末期になると鋼材不足で、配備されたチハ車はヤスリで簡単に削られてしまう。

 使われていたのは、単なる鉄板であった。こんな安物戦車では、米軍装甲戦車に一撃を食らうと、乗員二名が「串刺しになって」(注、司馬さんの言葉)、確実に死ぬ。

 ――こんな馬鹿な話はなかった。腐っても戦車ではないか。

 戦うに戦えない戦車に乗せられて死ぬ。では、何のために死ぬのかと、二十二歳の陸軍少尉は思い悩む。そして、佐野近郊で無邪気に遊ぶ五歳ぐらいの少女たちを見て、死ぬことは怖くはない。命を捨てる覚悟は出来ているが、こんな子供たちのためなら命を捨てても惜しくないと、若き司馬さんは決意する。

 ――なぜ、こんな愚かな戦争をはじめたんだ?

 日本人とは何か、日本とは何か。二十二歳で命を捨てねばならなかった自分への手紙として作品を書きつづけているというのが作家となった動機なのだが、一方で、幼い子供たちのために日本の最前線部隊に立つ戦車兵であった自分に、誇らしいものを感じていたこともまちがいはない。

 大正世代のそんな熱い思いを、司馬さんを見ながら私はふと感じることがあった。

 戦後、故郷の大阪に復員した司馬さんは産経新聞社に入社。文化部で記者活動をしながら、猛烈な小説執筆をはじめた。昭和三十五年、長篇『梟の城』で直木賞を受賞。本格的な作家活動に入る。

 同四十五年、私が人事異動で移った別册文藝春秋誌では、『殉死』『故郷忘じがたく候』などの名中篇を発表。司馬さんは超多忙な作家生活を送っていた。

 そんなある日、社の池島信平社長がフラリと編集部に姿をあらわし、私を見つけると、

「君は、豊田君の担当者か」

 と声をかけてきた。

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文藝春秋2016年3月特別増刊号 司馬遼太郎の真髄

定価:1000円(税込) 発売日:2016年02月05日

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