1分書評

タクシードライバーが運転席から見ていた、誰も気づかぬ街の風景

『インソムニア』 (高山邦男 著)

俵 万智

忙しくても1分で名著に出会える『1分書評』をお届けします。
今日は俵万智さん。

 歩くのが大嫌いなうえに、私は車の運転ができない。結果、隙あらばタクシーに乗ろうとするヘビーユーザーだ。これまで、数えきれない運転手さんにお世話になってきた。

 歌集『インソムニア』の著者の生業は、タクシードライバーである。常に客である自分にとって、ドライバー視点からの短歌の数々は、まことに興味深いものばかりだった。

 

わが仕事この酔ひし人を安全に送り届けて忘れられること

タクシーの運転手としてつね語る景気の話題を師走から変へる

 

 客商売といっても、同じ客を乗せることは、ほぼない。そこが店などとは決定的に違うところ。客からすれば、いきなり密室で命を預けるという関係の濃さと、たぶんもう一生会わないという淡さがある。一首目、そのギャップを運転手側から歌うと、こういう感じになるのか、と思った。結句の「忘れられること」には、一抹の寂しさとともに、仕事への誇りがにじむ。

 無難な話題としての景気も、年末になると、そう無難でもなくなる客が増えるのだろう。そのあたりの機微が、二首目にはよく出ている。「また天気の話か」などと思うこともあるが、意外と気をつかわれているのだ。

 

冬近し客呼びをする街角の娘たち上着一枚羽織る

観客のゐない未明を蛇行してバイク煙らす新聞配達人

霊廟のやうな時間を漂はせ赤色燈を点す交番

交差点の巨き海星(ひとで)の歩道橋一夜をかけて巡る空あり

 

 都市の無言の目撃者として、印象深い歌たちだ。空調のきいた車内では、肌で季節を感じることは少ない。だが、定点観測のように通る街角で、視覚がとらえる変化がある。露出多めのほうがいいはずの娘らが、こらえられずに羽織る一枚が、季節の指標となる。

 人通りの少ない未明だからこそできるバイクの蛇行運転。誰に見せるともない、ささやかな芸当を、作者は風景のように見守っている。昼間とは違う交番や歩道橋。人けがないからこそ、霊廟や巨大海星のようなユニークな比喩が成立する。作者ならではの視点でとらえた都市の表情だ。

 孤独だが、温かみのある、こんな人間くさい歌もある。

 

赤信号ふと見れば泣いてゐる隣 同じ放送聞いてゐたのか

 

 ラジオをつけているドライバーは、多い。赤信号で止まったとき、隣の車の運転手が泣いているのが目に入った。下の句から、実は作者にもこみ上げるものがあったことが、わかる。一瞬の、けれど確信に近い、不思議な連帯感である。

 

違和感を感じつつ貼る「がんばろう!東北」もつとおれが頑張れ

 

 会社から支給されたステッカーだろうか。社会全体でムードを作る大切さはあるものの、東北はすでに、これ以上ないほどがんばっている。違和感を、批判ではなく、自分へのエールとした下の句。さりげないおかしみがあって、人柄を感じさせられる。

 インソムニアとは、眠れない人々や不眠症という意味とのこと。夜を徹して都市を走り続けるドライバーの、まなざしは深い。

俵 万智(たわら・まち)

俵 万智

1962年、大阪府門真市生まれ。早稲田大学文学部卒。1986年、『八月の朝』で角川短歌賞受賞。1988年、『サラダ記念日』で現代歌人協会賞受賞。2004年、評論『愛する源氏物語』で紫式部文学賞を受賞。2006年、『プーさんの鼻』で若山牧水賞受賞。その他の歌集に『オレがマリオ』、エッセイ集に『旅の人、島の人』など。石垣島在住。

インソムニア
高山邦男・著

ながらみ書房 定価:本体2,500円+税 発売日:2016年04月20日

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