書評

ヘイトスピーチが吹き荒れる現実に向けて

『狩りの時代』 (津島佑子 著)

星野 智幸

 津島佑子さんが今年の2月に亡くなってから、新刊がなんと3冊も出た。そして本書が4冊目。この長編小説が、本当に本当の最後の新作になる。これでもう津島さんが新しく小説を発表することはないのだと思うと、津島さんが机を離れて、亡くなったお子さんやお兄さんと窓ぎわに座って、穏やかな表情でぼうっと庭を眺めている姿が浮かんできて、「もう何も心配しないでくださいね」と言葉をかけたくなる。

『狩りの時代』は、津島さんが12歳のときに肺炎で亡くなった、3歳上のダウン症のお兄さんをモチーフとしている。主人公の絵美子も、同じ年齢でダウン症の兄、耕一郎をなくす。父を早くになくしている絵美子は、以来、母カズミと2人で生きている。しかし、絵美子には母方、父方の親戚がたくさんおり、かれらからプラス、マイナスさまざまな影響を受けて育つ。

 

 物語は、絵美子やカズミ、たくさんの親戚たちの視点を自由闊達に行き来し、時間も巧みに行きつ戻りつしながら、戦争期から現代に至るまでの一族の歴史を描いていく。めまぐるしいほどに語りの位置が動くのに、読んでいてほとんど混乱しないどころか、次第に神話の世界に迷い込んだ気持ちになるのは、津島さんが到達した孤高ともいえる語りの技法によるものだろう。

 

 その中で、2つの重要な出来事が起こる。1つは、絵美子の母方の伯父や叔母たち3人が戦中の幼少期に体験した、ヒトラー・ユーゲント歓迎のセレモニーである。ヒトラー・ユーゲントが枢軸国の使節団として来日、3人の住む山梨を訪れたとき、3人は親兄弟の注意も聞かず、プレゼントする百合の花を摘んで、ヒトラー・ユーゲントを見に駅へ行く。そこで、些細だが子どもたちの心を生涯にわたって縛ることになる事件が起こる。かれらには、憧れを含む強烈な欧米白人コンプレックスが刷り込まれてしまうのだ。3人はこの事件を、自分たちの胸に秘めたまま、誰にも話すことなく大人になる。

 

 もう1つは戦後、絵美子が10歳のころ、その伯父たちの息子、つまり絵美子のいとこである同年代の晃か秋雄から、「フテキカクシャ」という言葉をささやかれたという、曖昧な記憶だ。それは、いとこ皆で遊んでいる最中、ダウン症の耕一郎の行動に腹を立てたどちらかが、腹いせに絵美子に投げつけたようなのだ。そのときは意味のわからなかった絵美子は、兄が亡くなった後の思春期になって、それがヒトラー時代に優生思想に基づいて「不適格者」を「慈悲死」させたという歴史から来ている言葉だと知り、恐怖にわななく。耕一郎を、社会に不要な存在として、抹殺する言葉だったから。

【次ページ】

狩りの時代
津島佑子・著

定価:本体1,600円+税 発売日:2016年08月05日

詳しい内容はこちら

関連ワード
新着記事 一覧を見る RSS

登録はこちら