本のなかの旅

ブルース・チャトウィン

――歩く人の神様なんです【連載第三回】

湯川 豊 (エッセイスト)

ふらりと現われるチャトウィン

『パタゴニア』(芹沢真理子訳 めるくまーる)

 ブルース・チャトウィンは一九八九年一月、四十八歳の若さで死んだ。熱心な読者も幅広い知友たちも、特別な存在であったチャトウィンの早世に茫然とした。一九九六年に彼の短い文章を編集した本が出版されたのは、早世を惜しむ気分が反映されていたに違いない。その本のタイトルは、『落ち着きのなさの解剖学(“Anatomy of Restlessness”)』。レストレスネスはたんに「不安」という意味もあるが、チャトウィン自身が自伝的エッセイのなかで使ったときは、「落ち着きのなさ」という以外にないものだった。

 落ち着かない。一カ所に留(とど)まっていられない。だから、個人でも集団でも、移動する。旅に出る。それはなぜなのか。

 一九七七年、旅行記『パタゴニア』でデビューし、一躍ベストセラー作家になったチャトウィンは、旅行作家と呼ばれるのを嫌ったけれど、まぎれもなく大旅行家であり、彼のすべての著書には通奏低音のように旅というものがある。

 短い生涯の後半は旅に明け暮れ、その旅のなかで、人が移動するのはなぜなのかを考えつづけた。

 大旅行家といったけれど、この言葉はあまりふさわしくないかもしれない。周到に計画して「旅行」をするのではない。一所不定、神出鬼没。友人たちがどこかのホテルに滞在していると、ふらりと彼が現われた。入院していると、ベッドのそばに彼が立っていた。ニコラス・シェイクスピアが書いたチャトウィンの伝記は友人たちのそういう証言を数多く伝えている。そして、ふらりと現われるチャトウィンはまことにかっこよく魅力的だった、とも。

 同じイギリスの旅行作家で、七歳ほど年下のレドモンド・オハンロンは、主著『コンゴ・ジャーニー』(土屋政雄訳、新潮社刊)のなかでチャトウィンのことを回想している。

 とんでもない早朝、チャトウィンから電話がある。三十分で迎えに行く、一緒にブラックマウンテン(ウェールズにある、チャトウィンの小説の舞台になった所)に行こう。白のシトロエン2CVがオハンロンの家の前でとまる。

 チャトウィンはすばらしい革のブーツをはき、濃い海老茶色の、カーフスキンの小さなショルダーバッグを肩にかけて歩きだす。バッグの中身は、モンブランの万年筆、モグラ革が表紙のノートブック、英訳の『戦争と平和』、見たこともないほど優美な双眼鏡。

 それは、「ヴェルナー・ヘルツォークがくれた。バッグは、ジャン・ルイ・バローが特別にぼくのためにデザインさせたやつだ」といい、彼は力強い大股で、丘を登りはじめる。「まさに移動の民の足取りだ」と、オハンロンは思う。チャトウィンはかっこよく歩きつづけ、話しつづける。

 一台のバンがよろよろとやってきて、チャトウィンは自慢のバッグをバンに引っかけられ、見事に空中でとんぼ返りをした。ロシアの小説を書くのが生涯の夢だ、という話をしている最中だった。回転中もしゃべり続けていて、「トルストイみたいにまっすぐ語るんだ、小細工はない」という、「小細工はない」のところで溝に転がり落ちた。

【次ページ】人間の本当の住処は道である

本のなかの旅

湯川 豊・著

定価:1470円(税込) 発売日:2012年11月28日

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