知られざる日本の山林王たち

第四回 数奇な運命に導かれて

プロフィール

のむら すすむ/1956年生まれ。ノンフィクションライター、拓殖大学国際学部教授。
上智大学外国語学部英語学科中退後、フィリピンに留学。アテネオ・デ・マニラ大学で学ぶ傍ら取材・執筆活動を始める。帰国後、『フィリピン新人民軍従軍記』(講談社+α文庫)を発表。アジア・太平洋地域、先端医療、メディア、事件、人物・企業論などの分野で取材と執筆を続けてきた。著書に『コリアン世界の旅』(講談社文庫・大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞受賞)、『アジア 新しい物語』(文春文庫・第11回アジア太平洋賞受賞)など。他に、創業百年を超える日本の老舗企業の生き残りを丹念に追った『千年、働いてきました』(角川グループパブリッシング)、在日中国人の「現在」に迫った『島国チャイニーズ』(講談社)がある。
朝日新聞、読売新聞の書評委員を歴任。講談社ノンフィクション賞選考委員。

山林王はケチなのか?

「山林王」と呼ばれる大山林所有者に共通する、ひとつの傾向がある。

 それは“ケチ”ということだ。そう断じて悪ければ、「倹約家」もしくは「節約家」と言い換えてもよい。

 ケチでない山林王の家系は、ほぼ例外なく没落している。吝嗇(りんしょく)でなければ生き残れないのである。

 だが、吝嗇一辺倒ではない。金銭を使うべきところには、惜しげもなく注ぎ込む。

 その最大の対象のひとつが、教育事業である。自らの学校や私塾や学生寮を開いたり、奨学金制度を設けたりしてきた山林王は、それこそ枚挙にいとまがない。これが、山林王に広くあてはまる、もうひとつの傾向なのである。

 前回までの連載で詳述した鹿児島の岩崎産業は、東京・世田谷区に学生寮を有し、郷里の学生を格安の寮費で受け入れてきた。

 “日本一の山林王”として知られる島根の田部長右衛門(代々この名をひきついでいる)も、東南アジアのアセアン諸国の青少年を対象に、奨学金や学術研究費での支援を続けている。

 歴史をさかのぼれば、京都の同志社大学や日本女子大学の創設時に、それぞれ5000円の寄付をしたのは、“大和(やまと)の山林王”と呼ばれた奈良・吉野出身の土倉(どくら)庄三郎であった。

 明治時代中ごろの5000円というから、現在の貨幣価値に換算するとおよそ5000万円にあたろうか。合計すれば1億円にもなろうかという大金である。土倉は、たとえば同志社への寄付の理由を、欧米列強がアジアを虎視眈々(こしたんたん)と狙うなか、

「日本の独立をますます堅固ならしめ」「日本国を外国の手に渡さざらんが為のみ」(『評伝土倉庄三郎』)

 とはっきり述べている。ただ愛国だけが目的だったというのである。

 彼は、政治運動への積極的な関与もいとわなかった。わが身にふりかかるかもしれない危険をかえりみず、板垣退助らによる自由民権運動を強力にあと押しし、その活動資金の大きな出どころとなった。朝鮮独立運動の指導者・金玉均(きんぎょくきん)が日本に亡命したおりには、自宅にしばらくかくまったと言われている。

 現在の土倉家には、山林王の面影はほとんどない。しかし、まったく意外なつながりなのだが、庄三郎の次男は乳酸菌飲料カルピスの創業に尽力し、孫はカルピスの社長になった。林業から乳酸菌へという道すじは、巨視的に見れば、どちらも自然の力を借りている点で一貫しているとも言えよう。

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